松浦@世界を染める脳内麻薬
ズボンくんからの指名、というかもう僕しかいませんね。書きましょう。
どうも皆さん、恐らくかつてない緩さでフィールドパート長やらせてもらってます、さとぼぉことサトチャンことサトシニキことササニシキことコシヒカリこと、松浦です。
10/5を以っていよいよ21歳になりました。15歳の時にはPARCOで「クレジットカードを作らないか」と声を掛けられ、
高校の時には電話越しに「お父様」と呼ばれ、
19歳の時に行った専門学校のインターンで留学生に何歳に見えるか聞いたところ平均年齢が24.8歳で、
21歳になって行った島原の新人戦で地元の高校生たちに「27歳!」「25歳!」と言われた僕ですが、
パート長ということもあり遂に年末ブログでトリを飾る立場になったわけです。
いやぁ、歳をとってみられるのって昔は嬉しかったものですが今となっては心にくるものがありますね。
島原のとある高校生は、僕のことを「32歳!」と言っていました。それを聞いたその子の顧問の先生は、怒ったり注意したりもせずに「確かに32歳かもねぇ、笑」みたいな反応を返していました。
納得いきません。僕はまだまだ21歳。
そんな21歳の見た目以上に若い僕にとって、20歳だった昨年の年末ブログから今の今までがどんな一年だったのかを軽く振り返ってみようと思います。
その後、中でも自分にとって特に大きかった出来事について、そして来年に向けて、なんて構成のブログにできたらいいかなーと思ってます。
追記:書いていくうちに、ありのままを愚直に書き出すブログの方が言いたいことが伝わるかもと思い始めたので、あまりにも文章としての完成度は低いですが、お許しください。
それでは、まあ、読んでみて〜。
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まず大雑把にこの一年を振り返ると、
今年の僕の多くを占めていたのは
なんと言っても学連ですね。
3〜9月はほぼ学連。3.4.5月は加えて新歓と4年生の補助(?)がありましたね。
まあ途中6月と10月一瞬気を抜いて、11月もほぼ学連。日数として4月は26/30日、11月は27/30日学連事務所に行きました。
12/2、島原駅伝が終わったことでようやく一段落、ですがこれからは西カレへ。
そして大学では目を背け続けてきたゼミも本格化し出して...
...まあ実際大変な一年でした。色んな人と揉めたし、夏頃には競技モチベ0になったし。
それでも辛いなりに楽しめた一年だったと思います。
キツイとは言いながら学連もなんだかんだ楽しかったし、何より学連にも数々の大会を一緒に乗り越えた仲間、同じカス属性のお友達、名古屋から金を飛ばしてくる変態の先輩、そして最高の相棒ができました。
特にこの相棒は、今年の学連のほぼ全ての苦楽を共にしたと言っても過言ではありませんね。
前にも言ったけど、改めてありがとう。
もちろん、学連の他のみんなにも感謝しています。みんなありがとう。来年以降は脳筋サポートに徹します。
行ける時になるべく行った部活も、一年生の底上げ、繋ぐ柱として完璧な二年生、ぽん吉くんとニャンズボンくん、というように、パートのメンバーにも支えられ、そして他パートの選手も気にかけてくれて、自分は人に恵まれている、ということが常に感じられるものでした。
4月の頃は無理をしてまで「自分が行かないと」と思っていましたが、今は2年生にも任せられるくらいみんなを信頼し、練習意欲や姿勢に対して尊敬もしています。
普段はあまり言わないですが、とても助けられていますし、とても感謝もしています。
みんなありがとう。来年も頑張ろうね。
そんな感じで今年は、
最悪なくらい大変で、最高に有意義だった年だった、とでも言っておきましょうか。でもかんだか振り返ってみれば愛だらけの一年でしたね。
学連が、部活が、自分の心や性格、大きく言えば人生観を動かしました。
もちろんそれは良い側面ばかりではありませんし、今もなお引きずるような出来事もありましたが、それよりも価値のある繋がりを得られたように思います。
そんな一年の中でも特に二つ、自分の中でいい方向に向かう転機となった大きな出来事をお話しします。
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1つ目は九州CS。
はっきり言って、この大会は地獄でした。
出なくて良かった、と思う大会は後にも先にもこの大会だけでしょう。
恐らくCS史上最少人数の学連役員数、昨年度CSから深まっていった九州学連と陸協の間の溝、学連内での揉め事、他にもありますが、僕は両者の仲介の立場でもあり大会としてはあまりにも地獄でした。
大会に向けての準備や打ち合わせももちろん地獄でしたが、中でも自分にとって最大の地獄は2日目午後から3日目。
あまりにも残酷な言葉をかけられ、九州インカレから九州CSまでの自分の努力は実らなかったのだと、無駄なものだったのだと、ただ身と心をすり減らしただけだったのだと、CSのその期間に僕は3度の号泣をしてしまいました。あれほど泣いたのはいつ以来でしょうか。
しかし泣くほど辛くても大会は進みます。
3日目はワクワクしちゃうほどのいい天気。
久留米の競技場には隣接してる施設がいくつかあるのですが、大会関係者に加えその施設の利用者で駐車場が溢れかえり、一時大混雑。
競技場にクレームが入り、急遽対応に向かいました。
利用者に怒られ、隣接施設の方に怒られ、ボロボロの状態で陸協の先生に相談し一緒に対応を進めました。
当然、どうしても2人では応急処置程度しかできませんでした。対応もどんどん遅れます。最優先で隣接施設にダッシュで謝りに行き、どうすれば良いか、どうすれば現状を打破できるか、必死で考えました。しかし、やはり人手が足りません。
途方に暮れていたところに(間違ってたらごめん)たまたまダンヨシくんとレイジくんが通りかかりました。
僕は2人に咄嗟に言いました。
「ごめん、本当急で申し訳ないんだけど、暇してる九大陸上部何人か連れてきて欲しい!」
このお願いは、本来多分あまりしない方がいいことだとは思います。
九大の運営の審判補助員回数の管理もあるし、学連としても要請してない人員なので、恐らくあまり良くないことだろうな、と今思えばそんな気がします。
でもそんなことは考えられないくらい僕は必死でした。
というか、進行形で死にたくて仕方ありませんでした。
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もう解放してくれ、
もう2度とこんなことはしたくない、
誰か助けてくれ、
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と心の中で何度も叫びました。
涙も出ないまま苦しみ続け、しばらく先生と2人で整備を続けていたところ、競技場の方から人だかりがこちらに向かって歩いてきます。
なんの集団かと思ってよく見ると、それは九大陸上部。ダンヨシくんたちが20人くらい引き連れてきてくれました。
その時の鳥肌というか、感激というか、感情の高まりは今でも忘れられません。
もう泣きそうでした。というか少し泣きました。
ただ泣いてる暇もなかったので、すぐに指示を出して駐車場整理を手伝ってもらいましたが。笑
でも、その瞬間から、僕の動きは明らかに活力を取り戻しました。
もはや一種の脳内麻薬が溢れたのでしょう。
この時、深く感じました。
自分が今までやってきたことに、確かに大会運営上はあまり意味はなかったのかもしれない。
でも、その取り組みは確かに周りの人たちには見られていて、自分が困った状況に陥っているところを見て、或いは聞いて、それだけで20人くらいの九大陸上部が助けに来てくれた。
本質的には違うかもしれませんし、僕の自意識過剰も多少あると思いますが、
“自分が困っている状況に助けに来てくれる人”がこんなにも出来たことは、僕にとって学連をここまで一生懸命やってきた意味として十分すぎるものでした。
別の視点では、確かに僕の半年の努力が無駄になってしまった側面が大部分としてあるのですが、あの瞬間だけは「本当に頑張ってきて良かった、自分は1人じゃなかったんだ」とそう感じました。
ずっと言えなかったのでこの場を借りて言わせてください。
あの時はみんな本当にありがとう。
ずっと辛かっただけに本当に嬉しかった。
脳内麻薬でトビそうなくらい。
もう少しだけ社畜頑張れそうです。なんてね。
この出来事は、1つのチームとしての陸上競技部や九州学連をもっと大切にしようと思えた、そんな大きなきっかけでした。
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2つ目は九州新人ですね。
あの大会は自分の「選手として」の気持ちの転機でした。
一旦CSが終わったことで学連が落ち着き、CSの翌日あたりから猛練習を始めました。
ウェイト、走練習、補強など、できるだけやってみました。
というのも、自分自身、この新人戦が大きな意味を持ってくる予感がしていたからです。
実は夏頃からずっと競技者としてのモチベーションはほぼありませんでした。そこに関しては、ゲリラブログにも少し書きましたね。
今振り返ってあの時の感情を簡単に言えば、
「戦うことが面倒になった」
が正しいと思います。
陸上競技の楽しさや大会の盛り上がりなど、そんなことを忘れたというわけではありませんでしたが、自分としては様々なきっかけからもう競技から離れてもいいかな、という気持ちが正直強かったです。
そんな中迎えた新人戦は、久しぶりに準備の上で出場できる大会でした。とは言っても2〜3週間程度なので付け焼き刃ですが、それでも自分にとっては十分すぎる時間でした。
“この数週間本気でやって、本当にもうやらなくていいと思えたらやめてしまおう"
はっきりと誰かに言ったかは覚えていませんが、本気でそんな気持ちで臨んだ大会でした。
結果が出るかは正直どちらでもよくて、
結果が出ないとしても何か価値を見出せるか否か、少しでもまだやりたい、或いはこのままじゃ終われないと思えるかどうか、
が自分にとっては重要でした。
出場種目は100mと三段跳。
どっちかにしようかなとも思いましたが、せっかくなので両方出ることに。
陸上競技人生で最初に出た種目と一番長く続けられた種目。僕にとってはどちらも特別な種目でした。
今の自分の心に火をつけるとしたら、この二つの種目のどちらかだろう、とそんな風に考えていたのです。
その数週間の練習量は今までの競技人生の中でもとても有意義なものでした。徐々に調子も上がっていきます。自分の中でこの大会が持つ意味も同時に大きくなっていくのを感じました。
そしていざ当日。
とてもいい天気で風も良く、大会自体のコンディションは言い訳にはできないものでした。緊張もなくあとはやるだけ、自分としては本当にもうそれだけのはずでした。
しかし、100mのアップを始めると、それ以外の何かに満たされていく自分がいました。固くなって然るべきな表情も、いつまでも柔らかいままでした。
理由なんてわかりません。
はっきりとわかっていたのは、「楽しい」という感情のみでした。
そんな状態でスタートラインに立った僕は、とてつもない多幸感に襲われ、更にニヤニヤヘラヘラフニャフニャしてしまいました。
出ました、脳内麻薬です。
自分でもなぜ100mの時からあんなにもハイだったのか、よくわかりません。でもなんとなく楽しくて仕方ありませんでした。普段撃つ側だからでしょうか?(笑)
学連の相棒と直属の後輩には、💊や🌱を疑われましたが、僕にはそんなモノは必要ありませんでした。
(あと、「いくらなんでもハムがハムすぎる」という変な言葉もいただきましたが、これはまあいいでしょう。)
記録は追い風参考ながら11.62。
今年は何度か100mに出場しましたが、追い風参考とは言えなんやかんや11秒台を見ることができたのはこの一回だけ。
結果も相まって楽しさ倍増となっていきます。
100mを終え、三段跳。
アップ中に腰に激痛が走り、その中での三段跳でした。しかし、相変わらずの多幸感。
ピットに入り、1本目から手拍子を求め、開口一番まさかの
「っしゃ!楽しくなってキタァ!!!」
そんな選手がいるはずありません。
でも仕方ないですよね、楽しくなってしまったんですから。
ここは僕だけのステージ、僕だけの世界。
どんな悩みも問題も、面倒くさい人間関係も何もかも、ここにはない。
目の前に広がる世界はただの砂場への一本道ですが、僕にとってはもはやステージへのレッドカーペット。
どんな結果を残そうが関係ない。
みんなの記憶に自分を残すだけ。
さあ、壮大でかつ繊細なSHOWTIMEの始まりです。
駆け巡る脳内麻薬、その高揚感が自分の中での競技観を大きく、目まぐるしく変えていくのを感じました。
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今まで一体何が引っ掛かっていたのだろう。
こんなに楽しい場所はないじゃないか。
やる理由なんて、これだけでいいじゃないか。
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3年になってから新人戦を迎えるまで、確かに競技や学連、部活に対して悩むことが本当に多い期間でした。
色々なものに追われて追いやられて徐々に無くなった競技への熱や向き合い方、半年間の努力が報われなかった九州CS、その一方で徐々に部内でも中心へと近づいていくことへの焦り。
もうどうすることが正解かもわからないほど常に悩んでいました。それは新人戦当日の期間も同じで、だからこそ真剣で尚且つ覚悟の決まっていた大会でした。
でも、いざ出てみてどうでしょうか。
そこにいたのは、真剣な顔で記録を目指し、大会に臨む自分でも、悩んだり泣いたりしていたその前数ヶ月の自分でもなく、
誰よりも大きな声で、
誰よりも頭空っぽにして、
誰よりも笑顔で、
誰よりもその場を楽しみ、
新人戦の主役になろうとする自分でした。
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まあ、とは言え大会中ではあったので楽しむだけともいかずに記録に目をやると、残念ながら1.2本目はいくら楽しめても満足などいくわけのない酷い記録でした。
その状態で迎えた3本目には流石に少し冷静にもなってきました。そして腰の痛みも増してきました。
現実に負けて終わりかける僕の世界。しかし負けじと僕は大きな声で手拍子を求めます。
九大と、なぜか九大と同じくらいの応援をしてくれる鹿屋。そして、ぽん吉くんの「さとし行けー!」という声が聞こえました。
呼応するように僕を襲う多幸感。
再び脳内麻薬全開、僕の世界はまた始まります。
「よっしゃあぁぁぁぁ!!ありがとう!!」
叫んでいました。やはり意味がわかりません。💊や🌱を疑われて当然です。普通ならしませんしね。
鮮明に覚えてはいるものの、こうやって記述してみると本当にイカれています。
そして腰の痛みを我慢しながら走り出し、跳躍。12m77cm。追い風ちょっとの公認。
試技を終えベンチの方を見ると、九大陸上部以上に何故か鹿屋の皆さんが盛り上がっていました。そのため、九大陸上部に向けてのつもりがうっかり鹿屋に向けてガッツポーズ。
この記録自体はまあ、及第点といったところでした。
しかし、それ以上に僕が抱いた多幸感が、僕の競技への心に再び火をつけました。あれ以来、大会は僕にとっての天然シャ...いや、この発言は問題あるかもしれませんね。
ただひたすらに、楽しかった。
競技場中を自分の世界にする感覚。
全員が自分を観ている。
記録が良い人よりも、自分の方が観られている。
何か自分がスター選手にでもなった気分でした。
後日談ですが、その後の秋季記録会ではファンもできていました。
そんな中、脳内麻薬のシャワーを浴びて、僅かな野心が芽生えます。
「これに記録がついてきたら、かっこいいだろうな」
その芽生えが、多幸感で着きかけた炎をしっかりと僕の心に宿しました。
記録以上に大切にしたいこと、自分が成し遂げたいこと、自分にとっての楽しみ方を自分の核に据えた上で、記録への想いも少しだけ。でもこだわりすぎずに。
このスタンスが1番頑張れそうだなって、散々悩んだからこそ気づくことができました。
10何年目かの競技人生でようやく辿り着いた境地。今更大きく変わった競技観。
ここからまた1から、始められる気がしました。
今思えば、本当に出場して良かったです。
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そんな二つの出来事が、
今年の陸上競技関係者としての僕を大きく変えました。
だから今は意外と前を向けています。
下を向いてしまう時はあっても、前には進もうと思います。
今年も今年で多方面にご迷惑をおかけしました。救ってくれた人、手伝ってくれた人、応援してくれた人、一緒に頑張った人、皆さんありがとうございました。にっこり。
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ではここから来年に向けて。
上記の通りですが、僕には競技をしていく上で、数値や〇〇大会出場というような目標はもうありません。
最低でも自己ベスト出せたらいいな、と思っていた時期もありましたが、やっぱりそれは少し違う気がするというか、別に楽しめさえすればどんな結果でも関係ない。
もちろん、結果はついてきたらかっこいいと思うし嬉しいし、ある程度は目指すんだけどね。
自分が行く場所は最高に楽しめるピットの上。
最高の舞台で最高の自分を、自分の世界を現実に表現するだけ。
それが一番楽しいと、新人戦が教えてくれました。
ただまあやるからには競技でも結果を残すことで、「あの人は学連だったから競技に支障が...」なんて同情を振り払い、みんなを喜ばせたい驚かせたいなとは思っています。
これはCSの恩返しです。あと学連の人たちにも、中高の同期にも勇姿を見せたいしね。
それが全てできた時、自分を襲うのはとてつもない多幸感でしょう。そこで再び全開になる脳内麻薬、楽しみですね。
もはやシ⚪ブ浦に改名してもいいかなって感じです。
そんな多幸感に包まれて競技人生を終える、最後の年にしようと思います。
まだまだみんなよろしくね。
おじさんもうちょっと頑張るよ。
あと、西カレですね。こちらの運営も少なからず担当させていただくことになりました。
気がかりはいくつかありますが、ここまでやってきたサトチャンなら大丈夫。乗り越えてみせましょう。
とにかく、あと半年ちょっと。
本気で飛ばさなきゃ後悔するよな。
チャンス逃したら後悔するよな。
出れる大会全て最高にしたいよな。
脳内麻薬全開の自分の世界にしたいよな。
よし、合法的にトブぞ、飛ぶぞ、跳ぶぞ。
キマッた目で覚悟も決めて、
ぶち上げていくぞ九大陸上部、
ぶち上がれフィールドパート!
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