片山@ホップ・ステップ・肉離れ

纏わりつくような湿気と絶え間ない雨に閉ざされた梅雨の重苦しさから一転、燦々と降り注ぐ陽光と、青空に一筋の飛行機雲が織りなす清々しい情景が心を解き放つ夏が到来したが、みなさまいかがお過ごしだろうか。じとじとと肌にまとわりつく梅雨の空気は、まるで心の隅々にまで染み入るような鬱陶しさを湛え、曇天の下で息を潜めるような日々が続く…。そんな閉塞感を打ち破り、夏の鮮烈な光と風が新たな活力を呼び覚ます。過去のブログを拝読していると同じ中学校・高校を卒業した先達のそれは、かような始まりであり一際目を引くものであった。万が一弊校にこのような伝統があったらたまらないので拙い文体ではあるものの踏襲した次第である。

それはさておき、自己紹介をさせていただきたい。片山悠太(かたやまゆうた)・法学部の1年である。種目は走幅跳・三段跳をしており、小学校4年の折に陸上競技の道に足を踏み入れた。先例に倣って陸上遍歴を述べるのも一興であるが、敢えて怪我遍歴について紹介しよう。時系列が定かではないのだが、入部当初に足の指を骨折した。また、6年生の時にはオスグッドシュラッター病に罹患しパフォーマンスが大幅に低下したと記憶している。当時は、この痛みと3年ほど付き合うことになるとは知る由もなかった。中学校3年の時には両腿が熱を持って腫れており痛みがあった。しかしながら、痛みをごまかしつつ引退まで競技を続けたところ、自然治癒してしまい結局原因はわからずじまいである。高校進学すると三段跳も始めた。当然のように腰を痛め、ひどいときは立ち上がれなくなり車で迎えに来てもらったこともあった。高校卒業後は、1年の修行を経て九州大学に入学した。実は部活動は高校2年で辞めており、最後に競技場に立ってからおよそ2年半の月日がたっていた。陸上部への入部は決めており、入学式後から練習に参加させていただいていた。体の鈍りに苛立ちを覚えながら100mを走っていたある日事件は起こった。三点スタートの姿勢から、地面を力強く蹴り、華麗に加速して一気にトップスピードへと駆け上がった。風を切り、地面を軽やかに蹴って疾走していた。身体は自由そのもの、まるで時間が追い付かないほどの勢いだった。だがその瞬間、左太腿に雷のような鋭い衝撃が走った。何が起きたのかわからないまま、足が止まる。次の瞬間、焼けるような痛みが広がり、膝が地面に落ちそうになる。右足で踏ん張ろうとしたが、力が入らず、身体が傾ぐ。汗と混乱が混じり、ただ痛みだけが全身を支配していた。つまるところ肉離れを起こしたのだ。この怪我のせいで胸中忸怩たる思いながらも春インは欠場、チームにも迷惑をかけてしまった。再起を誓った屈辱的な1日から数週後、久留米陸上競技選手権に出場した。怪我明けながらも、アップでは快調な動きで気分は上々であった。招集を終えて久しぶりに助走路に立つ。強風を切り裂き、助走路を一歩一歩力強く踏みしめて加速した。視線を前方に固定し、加速区間を終えると、中間疾走で姿勢を整え、スピードに乗る。ピッチを細かく調整しながら、踏切板へと突き進む。追い風が背を押し、記録への確信が胸を膨らませていた。左足を踏切板に叩きつけた刹那、鈍い音とともに左太腿に再び雷のような衝撃が走った。身体が宙で硬直し、着地もままならない。なにが起きたのかわからなかった、いやこの痛み知っているぞ!再び肉離れを起こした瞬間であった。記録は3m83という屈辱的なものであったが追い風参考のため無効である。医務室に運ばれ応急処置を受けたのち歩行もままならないまま陣地へと帰った。先輩や同級生が食料をくださり、そのやさしさが胸にしみた。この瞬間だけは足よりも心が痛かった。その後は1か月の休養をとり今に至る。肉離れシーズン3が始まらないよう細心の注意を払う所存である。

さて、七大戦が近づく中、4年生との別れが目前に迫っている。先輩方の逞しい背中は、まるで不撓不屈の精神を体現するかの如く堂々としている一方、個性豊かでユーモアが尽きることなく湧き出て、場を和ませるその姿を私は心から敬服している。最後の大会を前に、斯様な輝かしき諸先輩との訣別が迫る悲哀は、胸を締め付ける。だが、この期に及んで、私はただ一言、声を大にして申し上げたい――私はごく普通の人間である、と!七大戦では走幅跳のOP枠に出場予定である。先輩方の最後の勇姿を目に焼き付けるとともに、自分自身は肉離れシーズン3が...以下略。

次は絶好調の大月先輩よろしくお願いします。

九州大学陸上競技部フィールドパート's Ownd

0コメント

  • 1000 / 1000