松浦@花開け14年分の愛

年のある日、青いシエンタの中で母が僕に言いました。

「野球かサッカーか陸上、どれかをやりなさい。」

僕は泣き叫びながら言いました。

「絶対にやだ!全部やだ!」

それまで、予防接種や大嫌いな食べ物など、ゴネたり寝たふりをしたりしたらだいたい許されてきましたが、母もその時は何故か譲ってくれませんでした。

これが、僕の陸上競技との出会いです。

あなたと陸上競技、どんな物語がありますか_

--------------

どうも、2023-24年度フィールドパート長の松浦です。ここまでフィールド七大ブログを読んでいただきありがとうございます。最終走者はポンくんから指名をいただきましたサトチャンが務めさせていただきます。一応おさらいしとくと、僕の本名は「松浦悟志」です。後輩からの呼ばれ方もあだ名がメインなので本名は少しマイナーですが、後輩の中にもさとぼぉ派閥(まれにぼぉ)とサトチャン派閥があるようですね。僕はというと、どちらも気に入っておりそれなりに愛着を持っています。まぁ、当日も好きな呼び方で大きな声で応援をしてくれると嬉しいです。笑

気がつけば九大陸上部での3年間も、あっという間に過ぎてしまいました。とりあえず着いて行った1年の頃、常に何かに悩んでいた2年の頃、様々な苦労と不運に見舞われた3年の頃。思い返せば各年に色々なことがありました。その辺は過去のブログも参照してくれると嬉しいです。

4年生ということもあり、恐らくこれが最後のブログなので、そんな3年間以外も多く含め色々な話をしようと思います。感情と言いたいことを書き乱した汚い文章ですが、それくらい人生を掻き乱した陸上競技への、長い長いブログになります。長すぎると思ったら、下の方の意気込みパートだけでも読んでください。笑

14年前、まだまだ小さかった当時、走ることも運動も大嫌いだった僕が陸上競技を始めた理由は、「他のスポーツに比べて痛くなさそうだから」でした。ふざけた理由に見えますが、本当にこれ以上でもこれ以下でもありませんでした。足速くなりたいなんて思わなかったし、キツい思いをしてまで動きたいなんて微塵も思っていませんでした。とりあえず親の言うことを聞いて、とりあえず始めて14年。歴だけで言えば立派に聞こえますが小学校時代の僕を知る地元の人たちにとっては、僕は恐らく今もきっと「運動音痴で足の遅いさとちゃん」です。笑

練習どころか、体を動かすことからも逃げ続け、たまに練習に行っては年下にも馬鹿にされながらとぼとぼ走っていました。小2の時、200m走るのに54秒かかったこと、今でも覚えています。

そんなさとちゃんに転機が訪れたのは小5の冬。小6の夏にある、小学校対校の陸上大会の走幅跳の選手になりたくて、そこでようやく陸上熱に火がつきました。その辺りから練習にも真面目に行くようになり、足も徐々に速くなり、クラスの中でも上の下くらいになっていきました。しかしやがてきた陸上大会の日、走幅跳の対校選手として出場はしたものの突然腰に激痛が走り、腰椎の分離症を発症してしまいました。なんとか跳んだものの結果は散々の3m33cm。それから半年くらい運動も出来ない日々が続きました。

でも今振り返ればあの日々も「早く動きたい」「もっと動きたい」というような気持ちを強くさせてくれた、自分にとってはいい期間だったのかもしれないと思っています。

そしてそのやる気のままに中高と結局陸上部に入り続けました。根本のどこかには確かに運動嫌いのさとちゃんがいるものの、友達にも恵まれ部活は楽しくすることができ、陸上を続けられました。今思えば中学時代も記録はまるでダメで、大会も練習も一生懸命声を出しているだけでしたが、それでも高校に入ってもまだやりたいと思えたのだから不思議です。ちなみに当時は「さとす」「さっすぃー」などと呼ばれていました。笑

やがて藤枝東高校で迎えた高1の夏、突如として三段跳と出会います。全くの未経験状態でしたが、先生に教えていただきながら、2戦目の新人戦で12m04で9位、中学の時からの夢だった県大会に進出しました。ただまあそんな県大会は、初の大舞台に大緊張して、11m96で25位でした。悔しかったですが、自分にとっては県大会に出場できたという事実が何よりも誇れることでした。

翌年度高2は暗黒期でした。選手権、総体、新人戦、3連続でギリギリ県大会を逃しました。総体では先輩方の最後の4継の足を引っ張り、新人戦ではマイルの県大会出場を1秒差で逃してしまいました。秋は記録会がほぼなかったこともあり、なかなかに虚無なシーズンだったと思います。純粋に楽しめなくなっても仕方ないくらい、本当にうまく行きませんでした。

振り返ってもいい思い出はほとんどないですが、そんな中でも自称文武両道の鑑熱血系生徒会長松浦くんは、冬季目前のある日、顧問の先生に直談判しに行きます。

「今回の新人戦のマイルも、僕がもう1-2秒速く走れたら絶対に県大会に行けました。三段跳だけじゃなくて、400mも県大会に行けるくらいになって、マイルも県大会に自分がみんなを連れて行けるくらいになりたいです。」

うろ覚えですがこんな感じのことを言った記憶があります。とにかく本気でした。三段で「自分が負けた」という事実も僕の闘志を燃やしましたが、リレーで「自分のせいで負けた」という事実の方が僕の中では大きな原動力になりました。

それからというもの、松浦くんの熱は凄まじいものでした。400mの坂がなんだ、(250+260+270)×3がなんだ、タイヤ押しがなんだ、サーキットがなんだ、辛いと思いながらも本気でこなしました。

脚が攣って練習を完遂できない、というだけで泣いて後輩と顧問の先生をドン引きさせた日もありました。いつの間にかそのくらい自分の中を陸上競技が占めていました。自分のために、それ以上にチームのためにならいくらでも頑張ろうと思えました。

...今思えば、一番熱があったこの当時も、陸上を始めたばかりの頃も、学連に関しても、割と4年になった今の大学陸上も、大体は自分じゃなくて人のために競技をしてる節があるんですよね。拘りたい大会以外では根本の運動嫌いのさとちゃんなのでしょうか。でもそれで頑張ってこれたのだから、やはり自分が陸上競技を続けられたのは周りのおかげでしょう。笑

吉中陸上部の皆も、東高陸上部の皆も、僕をここまで陸上を続けることにさせたきっかけであり、恩人です。今こうして自分なりに楽しんで陸上ができているのも、陸上のことが好きになれたのも、皆のおかげです。1人だったら絶対どこかのタイミングで辞めていたと思います。本当にありがとう。またいつか、一緒に走ろう。

_こうして高2の終盤は走り続け、40秒間走で320m走るくらいの走力がやがてつきました。この頃のサトチャンは、短い距離沢山走るより長めの距離走る方がマシ!という、今とは真逆の考えでした。笑

メニュー作りを当時の僕がしていたら、180°違うメニューになっていたと思います。

しかし全てうまく行くわけもなく、1月末ごろ色々あって体調を崩し、そこまでに積み上げたものを一気に崩しました。

それでもそこからまた這い上がり、ようやく調子が戻ってきたと思った3月、コロナが流行り始め緊急事態宣言が出ました。そこでまた調子が落ちました。でも大会の有無の不安、大学受験への不安を胸にしつつも、叶えると誓った目標のために僕は信じて自主練を続けました。そしてそれには僕を除いた7人のうち、5人の同期が着いてきてくれました。他校の子さえも巻き込んで、みんなで続けることを決断しました。

当然陸上と勉強を天秤にかけ、先に引退した仲間もいました。でも僕は絶対に曲げませんでした。総体2週間前に脚を痛めても、他県の総体の中止が決まっても、宣言が延長されても。先陣切ってやると決めた僕が迷ってたら、チームも揺らぐし、今までの自分も報われないから。

やがて迎えた7月の中部高校総体。大雨強風の中迎えた三段跳で、12m75。自己最高の中部4位で県大会出場を決め、藤枝東高校に5点を持ち帰りました。ただ痛めた脚ではマイルはろくに走ることもできず、結局またあと1秒でもう一つの夢は果たせませんでした。

でも、一緒に続けることを選んだ仲間は全員、県大会出場を決めました。ちむくんもこうヤンものりぴーもくりぼーもさくらちゃんも、リレーメンバーとして戻ってきてくれたポスイも。

本当に嬉しかったです。今までの人生で一番嬉しかったこととして挙げられるくらいには嬉しかったです。このメンバーと、このチームでもう2週間陸上を続けられる、それだけでももう胸がいっぱいでした。

そしてあっという間に2週間後の県総体。

三段跳は2日目の終盤でした。

最後までやったとは言え、目標を達成できた仲間ばかりではありませんでした。男子三段跳は大会の終盤だったので、自分を含んだ同期7人の内5人は競技を終えていました。

男子の800mが終わり、部長のちむくんが戻ってきました。レース展開に苦しみ、普段はヘラヘラしていてきつくてもその感情をあまり露わにしないちむくんですが、その時のちむくんは僕には悔しそうに見えました。

ちむくんにこの話をしたことはないですが、この時僕は、「絶対に仇取ってやるからな」と(全然戦う相手は違うのですが)思い、体が、心が熱くなっていました。期待がどれだけあろうとなかろうと、下馬評では下位にいようと、関係ない。跳ぶしかない。跳ぶしかないから跳ぶんだ。

そして迎えた三段跳。

12m板は初めての経験で正直多少怖かったですが、中部の時に痛めた脚のことを考えても、1本目で決めるしかない。そう思っていました。悔しい思いをした仲間、早速結果を出した一年生、全てが頑張る理由になりました。みんなのために、ここまで頑張ってきた自分のために。一番気持ちが乗る1本目、僕は跳びました。

明らかに感覚の違う跳躍

明確すぎる手応え

僕は戸惑いました。

記録は13m00 (-0.2)

大学四年、つい最近になるまでずっと打ち倒せなかった、バフかかりまくりの伝説の記録です。

結果県総体はこの記録で12位。

もうもはや悔いなどありませんでした。

僕の陸上競技人生はここで終わるはずでした。

--------------

さて。

そんな高校総体からももう丸4年。

そしてあの日からは14年。7歳か8歳だった僕ももう21歳。生まれ育った静岡を離れ、先ほども申し上げた通り僕は九州大学陸上競技部にいます。

今考えても不思議です。昔の自分はまさか大学に入るまで陸上を続けているなんて思ってもみませんでした。小学校時代のコーチや友達も同じでしょう。あんなに走るのが嫌いで苦手だったさとちゃんが、動機は色々あったものの、なんだかんだ14年も陸上をしている。

気がついたら魅せられていた、そんな単純なものではない気もしますが、きっとそうなのでしょう。まして一生懸命学連役員やっちゃってるしね。

今日、この日に至るまでにたくさんの出会いがありました。ここまで紹介してきた静岡時代の友人や仲間、九大陸上部のみんな、学連のみんな。僕にとってはどれも大切な出会いです。

一人一人にと行きたいですが、流石に長いのでせめてフィールドパートには学年別でメッセージを...。俺の一個前のブログでそれをやりやがった輩もいましたが、僕はブログではそれは自重しようと思います。笑

まずは1年生。

圧倒的に狂人が多いフィールドパートに、入ってきたことにまず君たちも狂人認定です。他種目にも挑戦出来るユーティリティ性もあり、人数は少ないかもしれませんが、すぐに溶け込んだ君たちならきっといい先輩にもなれます。2.3年生と一緒に頑張ってね。

次に2年生、とジュリリン!(笑)

圧倒的に狂人が多くなったのは君たちのおかげでしょう。僕からしたらみんな眩しいくらいにストイックで強い。この一年でフィールドパートが盛り上がったのも、僕のやる気が0にならずに何度も回復したのも、間違いなく君たちのおかげです。一年後、二年後、さらに強くなるフィールドパートを期待しています。ありがとう。

そして3年生。

色々あったね。笑

敢えて君たちに言うことも正直もはやないのですが、とにかくどんな状況でも1人にはならないでほしい。色んなことを伝えてくれた、気づかせてくれた君たちだから、協力さえすればこれから動かしていく上で色んなことができるはず。気が合わなくてもやりたい事がそれぞれ違くても、同じ年にフィールドパートに入った仲間だってことを忘れないでほしい。一年後の姿を期待してるよ。

最後に4年生。

ズンくん。ウエイトや投擲をなんやかんや任せられたのはほんとに助かった。密かにたくさん考えてくれて気にかけてくれるから、こっちとしても心強かった。ひとまず九大として対校で出られる最後の七大戦、思いっきり投げてね^_^みんなもきっと君の特大投擲が観たいはず!俺も楽しみにしてるよ!

晶子さんと琴さん。この一年はあまり一緒に練習出来なかったけど、短い期間でも一緒にやれてよかった。七大戦には来なくても、福岡から応援しててほしい。2人がいない間も成長してきたフィールドパートが、きっといい報告を出来るように戦ってくるからね。^_^

最後にポンくん。大変なことが多かったよね。一回説教したこともあったね。でももう今までのことなんてどうでもいい。きっとポンくんなら大丈夫。頑張りも苦悩も一番見てきたつもり。最後にドカンと笑えりゃいいでしょ。俺だって頑張るよ。ようやく二人で出たい種目に出られるんだ、同じ最高の景色見にいこう。特大跳躍しようぜ。大丈夫、大丈夫。自己評価がどうであれ、俺やフィールドパートは絶対応援してるし、ポンくんができないポンくん自身を認めることを、少なくとも俺はできるから。みんなもきっと同じ気持ちだよ。しのごの言ってもしょうがないでしょ!勝ちにいこう、他大学にも、自分にもね。

みんなのブログを読んで、改めて一段と温かいパートになったな、と思いました。本当に良い後輩、同期に恵まれて、1年間やって来れたのだと思います。ここ数週間の練習、県選も、毎日みんなのブログに励まされて、今までのサトチャンよりもさらに頑張ってみました。県選の結果も謙遜抜きにしてもみんなのおかげだと思っています。七大戦ではみんなの目の前で期待にちゃんと応えたい。自分がパート長だった理由を、勇姿を、胸を張ってみんなにも語ってもらえるように。自分も胸を張れるように。

そしてここには書ききれませんが、諸先輩方や他パートのみんな、学連のみんなもありがとうございました。泣くほど悔しい思いをした今年の九州インカレ、あんな思いができたのも今となっては一つの経験だったかもなと思います。悔しさの中には皆さんに対する申し訳なさが大きくありました。期待を背負って手叩いて、大きな声で飛び出して、何も変わらず記録も残せず。そんな自分にも失望せずに励ましてくれたり、アドバイスをくれたり。そんなみなさんと出会えただけでも十分すぎる価値です。改めて、ありがとうございます。

陸上競技人生、特に大学での3年間については、辛いことと楽しいことどっちが多かったかと聞かれて、胸張って後者だと言えない僕ですが、それでもたくさんしてきた辛い経験には、絶対に支えてくれる誰かがいました。人間関係で悩んだあの時期にも、七大戦に出れずに腐ったあの時期にも、身体に異常が出てしまったあの合宿も、死にそうになりながら過ごしたあの学連の日々にさえも。だからそんな思い出すらも自分にとってはみんなとのかけがえのないものであり、あんなに辛かったことでさえも楽しかったのだと錯覚してしまいそうです。

ついこの前行われた静岡県選手権でも、九大陸上部や学連のみんながいない中での大会とはなりましたが、2回ファールして3本目、正直諦めかけていた中土壇場でみんなのことが頭の中に浮かびました。七大戦に繋がればいいやなんて気持ちではダメだ、ちゃんとPBを出してみんなに届けよう、みんなのことは見えなかったけれどそう自分を奮い立たせました。

その結果、4年ぶりのPB。応援がなくとも溢れた気持ちの分だけ跳ぶことができました。そしたらフィールドLINE、フィールドTwitterの更新の早いこと早いこと!!特にポンくんは速報サイトに齧り付いていたようで、僕の次の跳躍者の記録が速報サイトに反映されていないスクショをストーリーにあげていました。

自分であげたTwitter(リツイート)もインスタもいいねの嵐。何人に祝われたか喜ばれたかわかりません。どんだけ待たせてたかがわかりましたし、やっぱりみんな待っててくれたんだな、跳んでよかったな、と心から思えました。

紆余曲折のあった今までだって無駄じゃなかったんだ。

そう思うためにはたったの5cmでも、たったの1本でも、苦楽を共にした仲間からの「おめでとう」のたった5文字のテキストがそこにあったというだけで僕には十分でした。

単純に聞こえるかもしれませんがあの日、僕は本当に幸せでした。

こんなことを言っていると、本当に今まで長かったのかな、キツかったのかな、と思えてきてしまいます。いや、確かにどちらも感情としてはあったし、事実ではあるのだけど...。

一旦ようやく記録が出てしまうと、残りが短くて仕方なく感じますし、陸上競技だって出て欲しいと強く思えば絶対に記録の出る楽しいことばかりなものだと感じてしまいますね。

ただこれもまた経験できた事実なんでしょうね。

長かった、でも短かった。

苦しかった、でも楽しかった。

それも、もう終わる。

七大戦、大舞台。きっと応援してくれた、支えてくれた全ての人たちの愛を背負って、今までの自分を全て背負って、インカレでは記録に残すことが出来なかった現状最高の試技を当然のようにお返ししようかなと思います。

応援よろしくお願いします。

---

さてさて、陸上競技人生振り返りパートはこんくらいにして、ここからはようやく意気込みパートにしましょうかね。もうすでに長いんだけどね。

ついに、七大戦が来ましたね。

3年間、三段の対校枠を逃し続け、

3年間、三段のPBを出し損ね、

3年間、先日の県選含め絶好調の状態で大会に出たことなどない僕ですが、この大会にかける想いは恐らく皆と少し違います。

部活自体はこの豊橋の七大戦で一区切りですが、僕は実はね、CSまでは出るつもりなんですよ。

学連でもお世話になった久留米でのCSでも因縁の13m板へのリベンジを成功させて、全てを清算して引退をするつもりです。そうしないと、多分悔いが残ってしまいます。やるだけやりたい。これを心に決めていたわけではないですが、本気で臨む最後の大会の場所は最後の県総体の開催地だったエコパか、久留米がいい。それほど思い入れのある競技場です。

そして、そこには学連の相棒との約束もあります。

「去年学連で大変な思いをした分、今年は選手として活躍しよう。最高の最後にしよう。」

相棒である彼女にとって今これがどの程度大きな約束か分かりませんが、僕にとっては今でもとても大きな約束です。はっきり言って彼女は僕よりよっぽど格上の存在です。でも、こんなことを本気で言い合える大切な、最高の親友の1人です。

正直、現状では彼女に比べて僕はこの約束から遅れています。県選で正真正銘CSに出れる権利を得たことでようやく約束のスタートラインには立てましたが、これではまだ足りない。九州インカレや西カレでしっかり調子を上げていく彼女には鼓舞されてばかりで、正直情けなく思う時もありました。だからこそ、七大戦でまず約束を果たせるレベルの試技を見せ、彼女のことも鼓舞しながらそこからさらに高めて競技の最高潮を約束のCSに持っていくつもりです。


七大戦での目標は14m。トップ8に残ること。

県選時の跳躍の課題やコンディションの悪さ、自分自身のポテンシャルを考えれば100%不可能な目標ではないと思います。確実にインカレよりも調子はいいし、暑いほど、みんなが観ているほど、みんなの存在を思うほど、力を出せる人間です。任せてください。13m板、ちきり続けてきましたが、これを跳べなかったらようやく出場出来ても意味がないと思っています。跳ぶしかないんです。

ただ、こうは言ってますが七大戦では単純な結果の部分よりももっと大切にしたいものがあります。

だってさぁ...だってさぁ!!!

七大戦って九大生の特権のお祭りじゃん?

憧れて...

憧れて...!!

憧れてきた七大戦の対校選手‼

4年目でようやく手にした大舞台への挑戦権...!!!

そんな特別な大会にいつもの大会と同じように出たら勿体無いでしょ!

そりゃ跳ぶよ跳びにいくんだから!!!

でも、そんなのは前提。

それ以上に感じたいものがある。

きっとピットやレーン、サークルに立ったらみんなもわかるはず。

この1年間、フィールドパートはかなり自由にやってきたよね。雨だから休む子、たまにメニューに入ってくれる(笑)子、気がついたらもう一本走ってる子、石井晶子、保育園で園児より長く寝て部活に遅れてくるパート長(笑)、たまに来てくれる金髪ピアスの子、泣きながら地面を叩いてどこかへ消えて行くポンくん、リャンズくん、十種の最中に流血してるのに写真撮れって言ってくるドイツのおじ...お兄さん、不謹慎or不適切な表現を躊躇なくする男衆、三井さんに⚪害予告される子、酒が入ると暴れるポンくん、学校には行かずに部活にくるヴーヴ...。みーんな自由。良さだった部分もあると思うけど、もしかしたらそこに悩む子もいたかもとは思う。

部活のパート運営としても、他のパートから見たらもしかしたら纏まりはなかったかもしれない。個々の努力でここまで来たのかもしれない。

でも、七大戦ではフィールドパートが、九大が正真正銘一つになって戦えると信じてる。

投げる時、跳ぶ時、みんながいる方を見てほしい。短距離と被ってスタンドに人が固まっていたら、スタンドの方も見てほしい。

みんなは観てない、観れてないんじゃない。絶対に心では九大を感じてる。応援してる。それが一番現れるのが、それを一番感じられるのが七大戦。

だったら、

本気で九大を感じて、

本気で仲間を感じて、

本気で楽しんで、

自分の競技に出た方が絶対にいいよね。^_^

それが3年間憧れてきた七大戦だと思ってる。

それは重荷になるかもしれないけど、力はきっと何倍も入るはず。

だからパート長としてのサトチャンの最後の仕事。

「七大戦で会場のボルテージをぶち上げる」

応援も本気でして、自分も魅せて、みんなを後押しするよ。幸い今年も男子三段跳は対校最初の種目。舞台は整ってる。

競技面で、結果で見せることなんて、今まで出来やしなかった。パート長なのに、みんなの中で一番やる気のない日だってたくさんあった。幹部やパート長としての仕事も雑にこなしてしまったかもしれない。みんなが目指す先輩像なんかではなかったと思う。だけど、何故かみんな集まってくれた。応援もしてくれた。パート長として立ててくれた。みんなが俺に力を分けてくれるばかりで、俺がみんなに何かしてあげられた記憶はないけれど。

だからせめて最後くらいみんなに届けたいのは

「本気で楽しむことの楽しさ」。

また大きい声出して、手を叩いて跳ぶからさ!もう絶対悔しさに泣きやしないよ。記録だって出してみせるし、みんなをきっと感動で泣かせてみせる。かつて自分が偉大な先輩の跳躍を観たあの日のように。

観ててよ任せてよ。あんなに弱かったさとちゃんだけど、情けないパート長のサトチャンだったけど、インカレの悔しさも県選でのPBもバネにしながら、みんなの応援を受けて、脳内麻薬をぶち撒けて、過去も悩みも立場も全て一緒にとばして!

楽しさを味方につけた僕は誰よりも遠く跳べるんだから!

最後に。代替わりから早一年、とうとうサトチャン代のフィールドパートもここまで来た。いや、みんなが考えて練習を続けてくれたおかげで、サトチャン代でもここまで来れた。

少なくとも自分たちには、フィールド、九大のみんながついてる。一つになれば絶対に一人じゃない。

みんなと楽しんで出れたら、たとえ向かい風が吹き荒れようと、大雨が降ろうと、夢の記録だって出せる気がする。どこまでも跳べる気がする。そんな勇気の証がこの1年間。

本当に1年間、ありがとう。

夢のような時間だった。

このチームでやれてよかった。

たとえ形だけでもパート長やれてよかった。

九大陸上部、入ってよかった。

陸上競技、始めてよかった。

そして14年間の陸上競技人生。

長かった。でも早かった。紡いできた経験も失敗も繋がりも絆も愛も、全てがここまで来れた理由で、最後に踏み切る勇気になる。

あんなに運動嫌いだったさとちゃんだって、気がついたら本気で悔しい思いだって出来るくらいにもう陸上競技が自分の身体の一部になってる。

行ける、行けるよ。行くしかないから行くんだよ。ここまで楽しめたならどうなったっていい。せっかくだからみんなに応援してほしい。みんなに観ていてほしい。

静岡吉田AC、吉田中学校、藤枝東高校、九州大学、あと九州学連、他チームで仲良くなったみんな、応援してくれた全ての人たち。

遠く離れていたって、きっとみんながついてる。自分だけの力じゃない。みんなも俺を前へと押してくれる。

戦うよ。陸上競技を初めて出会った全ての人たちに、この14年間を支えてくれた全ての人たちに感謝を届けるために。成長した姿を見せるために。自分が跳んで九大のみんなの魂にも火をつけるために。

そして、最後は自分のために。


さぁ、幕開け。

跳ぼう、投げよう、行こう、戦おう。

最初で最後の、最高の七大戦を始めよう。

0コメント

  • 1000 / 1000